TMU Social Anthropology


研究 教育 大学院入試 社会人類学年報 kyoten-bnr00
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研究室の沿革

社会人類学研究室の誕生(1949-1953年)草創期の社会人類学研究室(1953-1972年)

成長期の社会人類学研究室(1972-1991年)充実期の社会人類学研究室(1991-2005年)

改新期の社会人類学研究室(2005-現在)

*本項目は、2007年に渡邊欣雄教授(当時)がとりまとめ、本研究室の旧ウェブサイトに掲載していた沿革記に、現在の在籍教員が加筆して公開するものです。

社会人類学研究室の誕生(1949年-1953年)

 東京都立大学社会人類学研究室は、昭和24年(1949年)、学制改革に伴い都内で唯一の公立総合大学として東京都立大学が誕生して以来、こんにちに至るまでどの学部にも専攻を持たず、昭和28年(1953年)の大学院社会科学研究科創設以後、大学院に設置された専攻であり名称である。したがって社会人類学研究室の歴史は、東京都立大学に大学院が設置されたその時期から始まるといえるが、草創期のスタッフはそれ以前から専任教員および助手として就任し、学部教育に携わってきた。その学部とは人文学部であり、大学の創設に伴って設置された学部である。

 人文学部には、すでに創設当初から「社会学専攻」が設けられていた。この社会学専攻とは、こんにちの人文学部社会学科とは異なり、ひろく社会科学系の講座と科目からなるものだった。まだ学部教育科目として社会人類学系の科目が開設されていなかった頃の昭和26年(1951年)、住谷一彦が先に助手として赴任し、同年の晩秋、岡正雄が教授として赴任。この2人によって、のちの大学院社会人類学専攻が築かれることになる。

 その社会学専攻に、翌昭和27年(1952年)、鈴木二郎が助教授として、また蒲生正男、祖父江孝男が助手として赴任、人文学部社会学専攻に社会人類学その他の科目が開設された。さらに昭和28年(1953年)、馬淵東一が教授として赴任することにより、ここに大学院社会人類学専攻が誕生した。

草創期の社会人類学研究室(1953年-1972年)

  学部教育は人文学部で行いながら、大学院の専攻は同時期に創設された人文科学研究科にではなく、社会科学研究科に属するという制度的なねじれがここに生じており、このねじれは、本専攻と同時に創設された経済政策専攻も同じであった。「東京都立大学社会人類学研究室」が、学外からは人文学部に設置された専攻であるかのごとく誤解され、学内では「社会学」の一部であるかのごとく見られるのも、こうした人文学部社会学科(旧社会学専攻)と大学院社会科学研究科に「両属」している設置にまつわる制度的な経緯によるものである。

 学部教育においては社会学のスタッフと教育を分担しあい、学部生は社会学・社会人類学双方の諸科目を学びうる、いわば学際的な社会学科として、東京都立大学創立当初から個性ある教育を行ってきた。大学院教育においても、社会人類学専攻創設当初は同様だった。昭和28年(1953年)に大学院学生を教育しはじめた当初から、社会人類学専攻は社会学・社会人類学双方に共通しうる国内調査を企画し実施しており、その報告書も刊行されている。海外研究を重点に置いているこんにちなお、日本国内研究も決して軽視しないという教室の姿勢は、ここに始まると称してよい。

 初代のスタッフが交替しはじめたのは昭和31年(1956年)からであり、同年蒲生正男助手退職、翌年、住谷一彦助手退職、昭和34年(1959年)祖父江孝男助手退職、そして昭和35年(1960年)岡正雄教授が退職した。昭和34年(1959年)以後、社会人類学専攻の助手は実質上1名となっており、こんにちに至っている。その助手に綾部恒雄、翌年助手は村武精一に代わり、さらに昭和38年(1963年)には竹村卓二が就任することになる。昭和35年(1960年)に岡正雄教授が退職してのち、教授に古野清人を迎えた。その3年ののち同ポストに鈴木二郎が就任、同年、助教授に村武精一が就任するに及んで、馬淵東一教授、鈴木二郎教授、村武精一助教授、竹村卓二助手の、いわば形成期ともいうべき社会人類学教室の運営と、専攻の学内外における特色がかたちづくられることになる。

 専攻草創期はむろんのこと、どのような研究であっても東京都立大学大学院社会人類学専攻生が開拓した内容が少なくなかった。当時、東京都立大学を除いては、東京大学、南山大学以外に、同類の文化人類学・民族学専攻やコースがなかったからである。なかでも特色はコミュニティ・スタディやアソシエーションの研究などだった。しかしそれらに代わって、「東京都立大学社会人類学研究室」とは、すなわち世界のどの社会を対象とするかにかかわらず親族研究を特色とするなどという学界における外部評価が、このころ出始めるようになる。世はまさに構造主義の時代。じじつ親族研究者が多数を占めていたとはいえ、それは過大な評価であり、当時の学界に対する影響力の大きさを表した表現にすぎないであろう。

成長期の社会人類学研究室(1972年-1991年)

  昭和47年(1972年)、馬淵東一教授の退職にともない、石川榮吉が教授に就任するや、社会人類学専攻生の成長期を迎えることになる。社会人類学専攻への進学志願者も年々多くなり、また進学者たちは学部で学んだ専攻が多岐にわたっていた。日本の経済成長も手伝って、研究対象とする地域が従来主としてきたアフリカや東アジアだけでなく、オセアニア、東南アジア、南アジア、中東へと拡大・充実したことが、この時期の特徴であり、こんにちにみる長期調査の日常化はこの時期から始まることになる。

 この成長期以後、助手の交替が盛んになり、こんにちにも及ぶことになる。昭和49年(1974年)竹村卓二助手が退職すると、小川正恭が助手に赴任。以後、昭和51年(1976年)には、合田濤が助手を後継。同53年(1978年)には山下晋司が、翌54年(1979年)には吉岡政徳が相次いで助手に就任し、後進の指導補助にあたった。

 この成長期を象徴しているのが、社会人類学専攻による数々の学術誌の創刊であろう。院生みずからが編んだ『社会人類学研究会報』は1960年初期から、そして村武精一の指導の下に定期学術刊行誌『社』も1960年代中葉に創刊されていた。が、やがて昭和50年(1975年)、院生とともに東京都立大学社会人類学会が設立され、その機関誌として『社会人類学年報』が創刊された。『社会人類学年報』は、こんにちなお社会人類学最高峰の学術誌として評価され、日本の社会人類学研究の水準を知る学術刊行物になっている。

 昭和55年(1980年)、鈴木二郎教授退職にともない、村武精一が教授就任、翌年、助教授として松園万亀雄が就任。1970年代から始まった社会人類学専攻の成長期は、都立大英文学科の光延明洋助教授を大学院兼担に加えて、80年代にも引き継がれ、新たな陣容で後進の育成にあたった。この時期、依然として助手の交替が続き、吉岡に代わって同59年(1984年)には、斎藤尚文が、そして同63年(1988年)には、玉置泰明が助手に就任し、後進の指導補助にあたった。

充実期の社会人類学研究室(1991年-2005年)

  平成3年(1991年)に目黒区にあった東京都立大学は、東京西部・八王子市の南大沢に全学移転したが、その前後、社会人類学専攻は大幅なスタッフ交替があり、新たな陣容で社会人類学の教育・研究に臨むことになった。まずは昭和63年(1988年)、石川榮吉教授の退職に始まり、松園万亀雄が教授に就任、渡邊欣雄が助教授に就任。その翌年、村武精一教授が退職して、伊藤眞が助教授に就任。移転の年の平成3年(1991年)には、玉置に代わり助手として清水芳見が就任。移転後の平成4年(1992年)、社会人類学の完全講座化に伴って大塚和夫助教授が就任した。さらにその翌年、渡邊欣雄が教授に昇格することによって、社会人類学専攻成長期の陣容を一新することになり、社会人類学専攻の南大沢時代=充実期に進入することになる。この充実期に進入した同6年(1994年)には、奥野克己が、同8年(1996年)には網野房子が、同10年(1998年)には高倉浩樹が相次いで助手に就任し、専攻の屋台骨を支えることになる。そして平成13年(2001年)には松園万亀雄教授が退職し、新たに棚橋訓を助教授に、信田敏宏を助手に迎えることとなった。

 平成10年(1998年)からは、久しく続いた修士課程5名、博士課程3名の大学院生定員を改革し、充実期に適うようにそれぞれ修士課程6名、博士課程4名の定員増を実現している。

  東京都立大学の特色ある学術拠点として内外で高く評価されてきた本専攻は、大学や研究所に就いた卒業生だけで68名おり(2000年度現在)、世界諸民族研究をほぼカバーしうるだけの多数の社会人類学者を輩出してきた。本専攻の学界における学術的役割、行政的役割もまた少なくない。本学で石川榮吉が人文学部長を務めたほか、社会人類学研究の上位組織にあたる日本民族学会の第6期会長を経験。幾人かの卒業生もまた他大学・研究所で学長・学部長・研究部長・評議員などに任じ、かつ日本民族学会会長やその他の学会会長、理事などを経験している。松園万亀雄もまた1998年度に日本民族学会第18期会長に任じ、1999年度には本学で2度目の同学会研究大会を開催した。渡邊は日本民族学会その他の理事を幾度か経験し、2度本学で全国風水研究者会議をその代表として主催、また1996年、松園・大塚は本学でナイル・エチオピア学会を主催した。スタッフ全員がほぼ毎年にわたり、文部省科研費その他による海外調査研究に従事している。そのかたわら、渡邊は2度本学主催の学会で講演、風水研究者として京都大学人文科学研究所や国際日本文化研究センターとの共同研究に従事、大塚もまた、日本民族学会その他の学会理事を幾度か経験し、同学会の第20期会長に任じた。また国立民族学博物館とイスラーム復興の諸相に関する共同研究に従事しており、伊藤は国際協力事業団の開発プロジェクトに参加し、東南アジアの保健医療の向上に努めている。棚橋は日本民族学会、改称後の日本文化人類学会理事を歴任し、数々の海外調査プロジェクトや国立民族学博物館を始めとした国内の枢要なプロジェクトを企画・参画しており、かつ本学に就任以来、学内外のさまざまな大学行政を補佐してきた。

 このように「東京都立大学社会人類学専攻」の名は、日本有数で最も歴史の古い社会人類学プロパー養成の大学院の名として知られており、主としてアジア、アフリカ、オセアニアの諸民族の研究に多数見ることができる。

改新期の社会人類学研究室(2005年-現在)

 さまざまな曲折を経て、東京都立大学は2005年3月をもって改組され、代わって2005年4月、「首都大学東京」が新設された。新大学の創設にともない、都市教養学部・都市教養学科・人文社会系・社会学コース内に、新たに「社会人類学分野」が誕生した。東京都立大学時代、人文学部内に社会学科とは別に社会人類学科もしくは社会人類学コースを設置することは、果たせぬ夢であった。しかし、侃侃諤諤の議論の中で断行された東京都立大学の改組によって、教員6人体制による社会人類学分野が実現したことは、皮肉なことだと言わざるをえない。

  「首都大学東京都市教養学部都市教養学科人文社会系社会学コース社会人類学分野」の誕生直前の2005年3月、大塚和夫が退任した。新設された社会人類学分野は、渡邊欣雄、伊藤眞(2005年4月教授昇任)、棚橋訓(2005年4月助教授から准教授に職名変更)に加え、スリランカ海村および西南日本の社会人類学・海洋海事人類学研究で名高い高桑史子(都立短大より転任)、在日コリアン研究・韓国研究・日韓関係研究で著名な鄭大均(旧人文学部文学科中国文学専攻より転任)、漢族を中心とした中国民俗学、日中比較民俗研究のため国内外で活躍中の何彬(旧人文学部文学科中国文学専攻より転任)を、社会人類学研究室に迎えることになった。同時に2005年1月、信田敏宏退任以来空席のままだった助手のポスト(2005年4月、研究員と改称)に、新たに気鋭の若手中国回族研究者である澤井充生が就任。2006年3月、棚橋訓退職。代わって2007年4月、実践人類学および理論人類学分野を補強すべく綾部真雄が准教授として就任。同年4月、何彬が教授昇格。社会人類学研究室は陣容を一新することになり、ここに社会人類学研究室の改新期を迎えることになった。

 2007年の綾部真雄の就任以後も、ひきつづき所属教員の退職と新任教員の着任が続き、社会人類学研究室は新しい時代を迎えている。2009年3月の渡邊欣雄の退職後、同年10月に石田慎一郎が准教授に、2013年3月の鄭大均の退職後、同年4月に小田亮が教授に、2015年3月の高桑史子の退職後、同年4月に田沼幸子が准教授に、そして2016年3月の伊藤眞の退職後、同年4月に深山直子が准教授に、それぞれ就任している。

 2014年5月、1000名をこえる日本そして世界の人類学者が幕張メッセ国際会議場に集合した。この記念事業(日本文化人類学会50周年記念国際研究大会:IUAES 2014 合同開催)の企画と実施において、社会人類学研究室はきわめて重要な役割を果たしている。第一に、学会50周年記念事業の一環として同一会場で開催された、日本文化人類学第48回研究大会の開催担当校(準備委員長=伊藤、委員=全教員)をつとめた。第二に、小泉潤二・日本文化人類学会会長(当時)を委員長とする国際研究大会準備委員会において、綾部(副委員長)ならびに石田(会長補佐)は、国際人類学民族科学連合(IUAES, International Union of Anthropological and Ethnological Sciences)の2014年中間会議の運営全般に深く関与し、多大な貢献をした。第三に、国際研究大会会期中、会場運営のボランティアスタッフとして、社会人類学教室の大学院生ならびに学部生が多数参加し、研究大会の成功に大きく貢献した。日本そして世界の人類学者にとって記念すべき2014年のこの事業は、改新期の首都大学東京社会人類学研究室による社会貢献のなかで、特筆すべきもののひとつである。

 2020年4月、首都大学東京は東京都立大学に大学名称を変更した。社会人類学研究室は、2020年3月の小田亮の退職後、同年4月に河野正治が准教授に就任し、新たな段階に進みつつある。現在、東京都立大学社会人類学研究室(社会人類学教室)は、65年をこえる研究教育の伝統を継承しつつも、時代の変化とともに新しい人類学の可能性を探究している。学生・院生は、今後、社会人類学だけでなく学際性豊かな研究教育環境を利用して、新たな学問創造が可能になろうとしている。

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